「帰還」「風評」前提のリスク・コミュニケーションの問題点 / The risk communication problems based on "return" and " rumor"

富山大学人間発達科学部  林 衛
HAYASHI, Mamoru, University of Toyama

東日本大震災・原発震災の最重要課題は「生活復興」であるはずだ。ところが,避難指示によって生業と住居が奪われた地域だけでなく,原発から離れた中通りでも「生活復興」は必ずしも十分に進んでいるとはいえない。「帰還」を優先し,基準値以下ならば安全であるのに売上が戻らないのは「風評」被害であるとする政府施策の必然的帰結だといえる。

東日本大震災・原発震災発生後,放射線の健康影響については「まだよくわかっていない」という指摘が各方面からあった。例えば,「放射性の健康影響が明らかになっているのは100 ミリシーベルトとか200 ミリシーベルトのレベル。それ以下は,健康影響があるかないかはわからず,あったとしても,他の要因に隠れてしまうくらい小さい。…広島や長崎などの調査でも,100 ミリシーベルト以下の線量は明らかな健康影響は認められていない」と環境省で放射線影響を担当している桐生康生参事官が述べている。2013 年6 月に国連人権理事会で日本政府に対して勧告を出したアナンド・グローバー氏による2014 年3 月20 日国会内講演の際の桐生参事官の「反論」である(Our Planet TV 報道から)。

原発震災後の政府施策の下敷きとして語られ続けてきた,この反論は以下の矛盾をはらんでいる。

(1)統計的に「有意ではない」結果をもって「明らかでない」として,あたかも影響がない,あるいは,無視しうるかのように語っている。

(2)統計的に有意でないからといって影響がないわけではない。ICRP(国際放射線防護委員会)も,放射線が生体高分子のつながりを1 発でずたずたに切断する高エネルギーをもつと理論的に認められ,実験によって確かめられている事実をふまえ,しきい値なしの立場を表明している。疫学の証拠(一般的には野外での観察)と実験・理論の証拠(一般的には実験室で得られる)をあわせて結論をだすのは,自然科学でもしばしばみられる科学的に妥当な方法である。広島・長崎の被爆者追跡データは平均的に線形を示している。すなわち,日本政府はICRP 勧告を遵守する立場を表明しているのだが,その勧告内容すら都合よく曲解した反論だといえる。

(3)低線量被曝リスクと同等だとされる野菜不足や受動喫煙などは,近年の政府政策において忌避すべきとされてきた生活習慣であるが,上では健康影響が小さい根拠にすり替わっている。 他方,科学技術社会論者たちからは,科学には問うことができるが科学だけでは答えのでない「トランス・サイエン問題の典型」との指摘がされた。科学が一つの正解を与えるとする「硬い科学観」への注意が語られ,多様なステークスホルダーの参加による科学技術のガバナンスが不可欠だとの意見に一定の注目が集まった。しかし,科学技術社会論者たちによる分析にも検討の余地がある。

科学には問うことができるが科学だけでは答えがでないのは,この問題では「科学の不確実性」のためではない(上記(2)参照)。むしろ,「最大多数の最大幸福」を追求する功利主義的な倫理観をよしとし,少数の犠牲をやむなしとする政府施策のもとで意思決定を求められる現実のほうが大きいのだ。人権軽視の政府施策を改め,個人の防護の権利を確立しない限り,たとえ多様なステークスホルダーが参加したとしても,「帰還」「風評」を前提とせず生活復興を求める立場は少数意見として多数決的民主主義によるガバナンスの対象とされるに留まってしまう。「リスク・コミュニケーション」は,ガバナンスの道具に堕してしまっているのだ。

 

2014年5月25日日本科学史学会年会公開シンポジウム
「新たな「放射線安全神話」〜今,歴史から何を学ぶべきか〜」
予稿

スライド,資料,詳細:
http://utomir.lib.u-toyama.ac.jp/dspace/bitstream/10110/12755/3/20140528_nihon_Hayash.pdf

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